駄文学日記

サーカス

ボーイ・ミーツ・ガール/レオス・カラックス(1984)

空間の分断に出色した映画だった。地点Aと地点Bを結ぶものがカットといえば当たり前かもしれないが、その当たり前が優れているからこそ言及に値する。

強調しておきたいのは、カットが巧いという訳ではない。あくまで空間の分断が巧い。
別たれた地点を、時空間を結ぶ際に求められた私性というサンタグムに則って構築された映像は、ほぼ必然的に、エゴイズムと寂寥と断絶を表出させ、それらは本作の意味論的主題に極めて効果的である。
所々、初期のペドロ・コスタを想起したが、荒ぶれる可能性に満ちたシークエンスに対して、執拗さを感じさせるほど静かに撮るあたりにその類似性があるかもしれない。
例えば中盤~終盤のパーティの場面が該当する。
先ほど空間の分断について述べたが、パーティという屋内会場におけるカットは、前半と比較して弱い。屋外でのカットや地点移動は、そこに明確に空間力学が存在するが、屋内は端から閉じられてるかつ、空間の分断の厳密性に関して、どうしても弱くなる。前後のカットにおける空間の重複性だろう。
逆に、屋外は空間に境が無い故にカットの強さ、巧さが目立つ。
では、空間の分断が弱いパーティがつまらないかと言われれば、否だ。もう少しどうにかやれたと思う箇所はそこにあり、全体の中でも間延びしてるシークエンスであることは違いないが、ここでカラックスは、空間を手中に収めることを半ば捨てる代わりに、意味論的回収を強固にしている。パーティの重複し続ける空間で男女が対話し、そこではディスコミュニケーションが強調される。
対話は、まま長回しであるが、二人の目線はずっと合わないし、独りよがりな台詞だけが時間を繋ぎ続ける。
映画を俯瞰した場合に技法として優れている空間の分断から、意味論的に問われるべきである他者との分断への転換がここで成されており、パーティの映像の怠さが、アレックスとミレーユの為の"溜め"として蓄積されたものならば、許しても良い気がする。
しかし私がパーティの怠さを許せてしまうのは、怠さ故にその後の映像の巧さ(これもやはり空間の分断だが)が際立つからである。
帰宅したミレーユが煙草を吸う部屋はカーテンが閉められており、彼女がカーテンを開けると壁一面が窓になって、外界が映し出される。向かいの部屋では男女が睦みあってる。
ミレーユは鋏を腹に当て絶望している。そこにアレックスが現れ後ろから抱きつくことで鋏が腹に刺さり、映画は終わる。
このミレーユの部屋は前半にも登場するので、窓の大きさなどに驚くのは筋違いかもしれないが、カーテンを閉じておく→開けるという行為ひとつで、映像の質量は段違いに上がる。いままで観てきたものがまったく新しいものとしてそこに現れるとき、画面が美しさを獲得するまで蓄積された文脈は、カタルシスを生む。表層の映像技法から導かれた空間の分断、そこをねじ曲げて意味論的に表現した他者との分断、これら二つが組合わさるラストだからこそ、映画として優れてると言わざるを得ないのである。