駄文学日記

サーカス

クライムズ・オブ・ザ・フューチャー/ デヴィッド・クローネンバーグ(2022)

至って真面目に妄執に駆られる人間をクローネンバーグは描いてきたが、本作での人物もといクローネンバーグの妄執は、有機性だろう。開かれることと言っても良い。

手術器具や食事の補助をする椅子、特注のベッドはどれも人体をケアする為に作られたものだから実用的でなければ困る筈なのに、どう見てもヴィジュアルで選ばれた肉々しい有機的な造形をしている。確からしい現実を基準点にした場合、そこから遠ざかって隔離された空間にこういう類の美意識を抱えた人間が昔から存在して、いまも変わらないファッショナブルな手法で目を楽しませてくる。だからこの映画はすべて冗談で、「裸のランチ」のタイプライターのように、クローネンバーグの頭から零れた悪夢が受肉したような造形に、おちょくられ続ける。補足すれば、人体の延長にあるテクノロジー有機的なデザインであることはテクノロジーと人間の距離の逆説的な表現だと理解できるが、それでも視覚快楽が優先されているように感じる。

手術はパフォーマンスアートになり、同意の下に肉を開く行為はセックスと捉えられ、人々はもう痛みを感じない。身体の内側の露出が気持ち良いのではなく、身体の内という見えてはいけない領域の入り口を顕在化させる行為が快楽を生んでいる。もちろん、傷つけられること自体へのマゾヒスティックな快楽は否定しないが(否定しがたい演じ方をされてるので)、本質ではない。主人公ソール・テンサー(ヴィゴ・モーテンセン)は、大量の耳を身体中に生やした代わりに目と口を縫い付けられた男のパフォーマンスを鑑賞するが、この鑑賞は否定的に捉えられる。何故なら”開く”と対極的な”閉じる”行為に魅力は無いからだ。

また、開く行為そのものが性的である場面は数えたら飽きるほどに多く、開く快楽は状況に応じて人体改造的な変容の快楽と接続されたりもするが、もっともミクロかつ暗喩的な美しさを纏った”開く”場面は、ヴィゴ・モーテンセンの口を開いてキスするクリステン・スチュワートだった。このシーンの一瞬の美しさから、肉体にこだわり続けた意味が容易に精神のレヴェルへ接続され、それは観る者も直感的に理解しただろう。

また、本作でテクノロジーを扱う人間は恣意的に、少しの残虐性を強調されている。好奇心が先走っているきらいのあるレア・セドゥはともかく、解剖機をメンテナンスするメカニックの二人が暗殺者の役割も兼ねていることが示唆されるが、これは人に施す側の存在がこの映画においての加害的責任を担っていることの示唆でもある。この映画は最終的に、有機性が無機的なテクノロジーの産物に敗北する未来が確約される。そうした敗北の先に待ち受けるものが人々の歩むべき未来ならば、テクノロジーに適した人体に成ってしまう敗北は、人類という種から施された同意の無い手術の結果の様なものだと思う。