駄文学日記

サーカス

四季 ユートピアノ/佐々木昭一郎(1979)

知人がこの映画を「大事なことがすごい速度で過ぎ去って、出会いも別れも同じような。生は流動的と言ってたけどその通りで、生きることが音楽みたいな」と言っていた。うろ覚えだから厳密には違うけど、良い感想だった。その言葉に牽引されて本作を観た。

透明な結晶に光をあつめ続ける映画だったように思う。音を愛している栄子。かたちない音を記録し、個人が引き受ける必要もなかった悲しみを瞬間に留め、喜びも悲しみも一瞬に最大値をとり漲る。身の回りで起こった離別を当然に受け止めきるゆえの淀みなき生がある。
「主よ、人の望みの喜びを」が流れるときの良さ、この音楽が流れる物語の間違ってなさがあり、栄子の生への態度は敬虔の語が該当するほどに一貫してる。要は、ずっとずっと貫いてるから美しいものがある。
ひとを取り囲む死の奔流のなかで栄子のし続ける独白が映画の肝だが、口調は穏やかで優しく、喜びも悲しみも等価的に語るその感覚と流れるクラシックの親和性が高い。独白により生は流動的に語られるが、独白それ自体は生の特定の瞬間への断続的な宛先のない告白であり、流動的ではない。
重要なのは独白の形式が担保する有無を言わせぬエモーショナルへの繊細な制御が成されてること。エモーショナルのおかげで断続的な言葉の数々が連続性を保てること。
生を断続的に語るやり方でその流動性を際立たせる語り手だった栄子が唯一明確な生の軛として打ち込んだものがピアノという、名状しがたい悲しみと愛おしさを、私はまだ咀嚼できていない。
最後に栄子はピアノの調律師として道具を紹介する。道具は音を正しく集める為のものであり、世界を認識する方法だ。栄子の原体験が兄の死と密接に結びついたピアノだと前提し、栄子がいままで音を記録した日記を失くして最後に購入するものが、これもやはりピアノなのだ。固有の音を愛でた栄子がその根幹にある、個の音への愛着を包括しうる音の集合体を手にすることで、回収される生への全体観のようなものがある。それはエモーショナルでも、心象でも、一種の神秘じみたものでもある。しかし、栄子は最後に涙を流し、世界に存在する固としての態度を示す。笑みと悲しみの合間にある表情に対して、終わりがあるから美しく好きになれた四季が、それでも終わるときはこんな表情になるのだろうな、と思った。私は悲しかった。