駄文学日記

サーカス

王国(あるいはその家について)/草野なつか(2019)

「王国(あるいはその家について)」メインビジュアル

素描のような質感だった。忘れることのできない表情と声色があった。それがいつの表情か、私はもう忘れてしまった。

 

あらすじを軽く述べる。

人物は四人。竹本亜希(29)、垣内野士香(29)、垣内直人(31)、垣内穂乃果(3)。

亜希と野士香は幼馴染で、直人は大学の先輩だった。穂乃果は野士香と直人の子供だ。仕事を休職した亜希は地元に戻り、結婚した二人に、四年ぶりに会う。穂乃果には初めて会う。亜希は、直人と野士香に不和を感じる。たとえば、二人のかわりに穂乃果の世話をしたら、穂乃果が発熱をしてしまい、直人に言及されるときの言葉と温度。「もう会わないでほしい」という直人の意志を伝達する野士香の声色。野士香と直人の会話。

亜希と野士香は、幼いころに、自分たちの王国をつくった。台風の日、椅子とシーツでつくった。王国に入るためには暗号が必要だった。

ある日、野士香に穂乃果の世話を頼まれる。一時間ほどで帰るから、と告げられて。その日は台風だった。穂乃果は外に出たがり、亜希は仕方なく連れ出す。荒れている川を見る。不意に、殺意が湧く。亜希は穂乃果を突き落とす。亜希は、野士香への手紙を投函した後で自首する。

 

映画は、亜希が取り調べを受けているシーンから始まる。完成されたフィクションは、恐らくここしかない。映画を構成する大半は、亜希と、野士香と、直人の同じ会話だ。通常ならば映画に残らない、またはリテイクされる会話が、延々と撮られる。台本を読み上げる三人、読むはやがて演じるに代わり、言葉が発せられるそのたびごとの差異がある。人物が役を獲得してく。けれどこの映画は過程を撮るから、物語上の役と、言葉や伝達のために要請される言葉以前のさまざまが一致したように思える到達は起きえない。

セットも無い空間で台本を読み上げている段階から、演じるための場所とシークエンスが用意される段階への変遷は、確かにある。たとえば、直人と亜希が一緒に帰りながら話すシーンは、実際に外で、私たちの生きているこの現実世界で私たちがそうするように、直人は自転車を押し、亜希は横で歩きながら演じる。

しかし、同じ会話を無数に繰り返し、役者がリアルに変化している、と思えてしまうレヴェルの差異が表現されてしまった後では、私にはそれが到達だとはおもえない。

この作品が映画である理由はもう、過程を記録する媒体として映像が適していたから、位しか思いつかない。本番に到達させないためには、記録しかない。

映画の以前にあるたくさんの要素を映画にする試みというより、試みが結果的に映画の形式をとってしまったかのような映画。だからこの作品はどこまでいっても試みで、完成を拒んでいる。完成なんて、言ってしまえばひとつの区切りでしかないが、役者の言葉が、表情が、温度が、正解としか呼べないものに接近し続け、一瞬の臨界を迎えながらも、それらを存在しない完成の過程へと引き戻す、通常とは逆の力学が働き続けている。

鑑賞している際に、ホセ・ルイス・ゲリンが自作「シルビアのいる街で」に寄せた言葉を思い出した。それは「互いに見つめあい、表情を読み取るところから愛ははじまる(…)その意味でこれは『愛の物語が生まれる直前の映画』と呼べるかもしれません」というものだが、表情が、感情や物語や言葉以前にあるものとして再定義された類型として、想起したのかもしれない。まあ、何の関係も妥当性も無い。

本作に直前もクソも無い。完成への未到達は、けして直前ではない。その瞬間ごとにしか生まれえなかった何かが確かにあり、それらが作品の要素として棄却されずに残されることは、差異を孕みながら分岐する無数の現在を引き継ぎ続ける営みであり、たとえるなら、誰も殺さない方法を見せられたような、美しさと気高さとその行為自体に付随する否応なきグロテスクがある。

すべての言葉が必要だった。”私たち”が読み続けた、そしていつしか演じ続け、演じていない身体からも発されそうになった、言葉が。存在した他の時間を否定しないために、同じ言葉だけが途方もない数くりかえされる。

その果てに穂乃果は死ぬ。その事実がどこまで重要なのか私にはわからない。事実という語が定義しうる領域に物語上の性質が重なるだけにも思えるし、その重複をひとつの結論として、再構築されたものが本作とも言えてはしまう。

 

現実への再帰性が担保されている作品には、自己批評的な側面がある。表現そのものの身体が生きる場所として前提された空間を自ら解剖するのだから、自明だ。

または、作品自体が自己批評/言及性を帯びるための手つきをとれば、ふだんの表現では必ずしも浮かび上がる訳ではない、現実と虚構との関係性が際立つ。

そして表現を超えた"表現"が、表現という行き場すらも覆い尽くし、その果てに表現という場では一種の死者とも呼びうるような状態に陥る倒錯をついに迎えてしまうと、越権して現実に到達し、到達した瞬間に、表現の場で"表現"は限りなく美しくたとえようもないほど生者として甦生する。

現実への再帰性を獲得した表現は、表現への再帰性も同時に獲得するのだろう。

その地点において観客は選択を突き付けられる。虚構という”王国”はかつて私たちが信じた形式を許容しない。領土を拡大し続けた”王国”の住人でありたければ、私たちもまた個人の領土を拡大しなければならない。

”王国”を、ある程度までは他者と通ずる認知を、私固有のものにするとき、いままでの私や他者と触れ合えない領土が発生する。だからどこかで、私の侵害を私は見なかったことにする。または、かつて私たちの王国を治めたものを、言葉やトーンをあなたがまだ尊重しているのなら、私の侵害は法に触れない。世界の法律に触れても、私たちの王国において、私たちの王国が決定的に損なわれる方法では裁かれない。

 

だから、だから? 例えば時間のようなものに裁かれたとして、それは私とあなたが向き合えなかった時間に他者があなたと向き合い、私はそれによって私の席が奪われたように思うけれど、あなたのなかにはまだ私の席はあって、私は、そこが空席になってしまった事実に耐えられないのだと思う。願わくば、私が王国と呼んだそれを、私と同じ意味であなたも王国と呼び続ける残骸が、生き続けていたら。