駄文学日記

サーカス

夢の島少女/佐々木昭一郎(1974)

少女は音楽を愛していた。私は音楽を愛していないから、作中でパッヘルベルのカノンが流れるタイミングでの映像と物語の兼ね合いから少女は音楽を愛していたと推測するに過ぎないけど、愛で済ませられたならばまだマシなもっとどうしようもないものも音楽に仮託させてるから、別に音楽を愛していない私でも鑑賞体験として何かを引き受けてしまった。

たとえばそれは人が死ぬこと、刻一刻と生は死に近づいていること、ある地点から区切りがついて唐突に大人になることはできず淀みない生のなかで汚れていくこと。人が死んだとき愛着の行き場は確かめられないこと。そこで流れるのも音楽だということ。
否定したい現実を作り出した自分(少女)から記憶を失くした自分が生まれたから、かつての記憶を取り戻す行為は無垢な自分への殺人で、少女を拾った青年が求めた少女は死者である。だから最後の再開はダブルミーニング的に青年が追い求めたメランコリックな反復を踏襲している。わがままは一度だけしか叶わないのだと思う。
喪失と獲得の重さが等価のように描かれるが、失うときは振り返る過程を経てしまうからその分だけ、喪失は重いかもしれない。少女はたくさん喪失した。だから重さを引き受けたまま次の事柄が切れ目なく身体に流れ込んできて、一度だけ記憶を消した仮初めの無垢になった。

そして青年と出会った。運命に演出された出会いがニセとわかったから少女は青年を拒んだ。いや、夢を見ていられなくなった。現実を確認したら誰にでも売り渡せる私ではない身体をつくった。青年と再会する。あなたは目茶苦茶なことを言う。自我にまみれている。あなたが慈しんだ存在は私でなくもっといえば慈しみよりあなたに都合の良い救済だった。けど私は私の気持ちもわからないのだと思う。そこでもたれ掛かった先にはまがりなりにもあなたがいて私の身体を受け止めてしまう。
カノンは夢や憧れや理想のプレリュード/レクイエムの役割を果たしていた。また、少女のそれぞれの人生の出来事をひとつのパートとした輪唱だった。物語が完結する終盤にすべてのパートが出揃い、曲が出来上がる。そこでのカノンは反復の可能性が否定された一度きりの祝祷に違いない。完成したカノンに包まれて恥辱にまみれた真の無垢が表れる。私たちはその姿を観ることができない。