駄文学日記

サーカス

夢ではなく、夢を見る時間そのものとしての映画「マルメロの陽光」

第一段階 エリセの映画として
本作は夢見るための舞台装置として機能せず、夢の不在を肯定する。夢見る時間そのものが映される。

第二段階 ロペスが主人公の映画として
現実が夢の不在を肯定するが故に、本作は夢を見る装置として機能し、夢見る時間そのものが映される。


本稿の帰結は上記の段階に分けられる。第一段階を語るために、第二段階からすれば矛盾を含む表現が見受けられるだろうが、順を追って読むにあたり、わかりやすいだろうとこの形式を採用した。許して欲しい。

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「マルメロの陽光」はドキュメンタリー以前に映画である。ドキュメンタリーとフィクション、事実と虚構の差異をもっともらしく考えるのは容易い。ただ本作はどこまでも映画をやっている。贅肉を捨て去ったむきだしの映画をやっている。ともすると原始的とさえ評して良いかもしれない。リュミエール兄弟の「工場の出口」を鑑賞して、ドキュメンタリーとしての感想を述べるのは間違っているだろう。そういうことだ。

9月末。マルメロを描くと決めたロペスが自宅の庭で準備をする。恐らくここだけで15分近くある。停滞した時はゆるやかに、しかし二度と同じ光を発さないマルメロの実が静かに重さを増す予兆にも思える。ロペスは実に白いしるしをつける。基準となる目線から実が熟れてずれた位置を測るために。

10月。ラジオが流れている。陰鬱なニュースが聞こえる。大量の雨が降り、ロペスは描きかけの絵を諦めて地下室へ運ぶ。カメラも地下室に置かれ、階段を登ったロペスが扉を一枚ずつ閉める。さながら閉じられる墓棺を眺める死者の構図だ。マルメロの絵に二度と光は当たらない。迸るエリセの映像感覚が一旦わかりやすい絶頂を迎えたのがこの場面だろう。
次にロペスは素描から始める。光を描くために、物質の形を把握する段階から光への考察を始めたように思える。
またラジオが流れている。忙しく変化し運ばれる澱んだ風のような世界情勢は、確かに存在しながらも触れようがなく、何も語られず、映画の背景音楽と化す。乱雑に動くことを余儀なくされる世界のなか、変わらず同じ絵を描き続けるロペスとそれを取り巻く空間は夢のように映る。

映画と名付けられた夢の形式に、マルメロの実を描くロペスという真実が否応なく立ち上がってしまう現象について言及しよう。

用いられた「真実」とは二重の意味を内包する。

一つ目、物語も脚本もない本作においてマルメロを描く行為は単なる事実であるということ。
これは大した問題ではない。物語解釈は不可能性を帯びるが、映画の見方は多数存在する。映像から生成される瞬間的な文脈の読み取りを、いま私が試みてるように。
ただ同時に夢を語る舞台装置としての機能は喪失する。何が残るか?夢の時間そのものだけが残る。
かくして本作は快楽を残した夢の不在を肯定する。骨と光がある。夢を剥ぎ取られた映画に時間と空間だけが残される。それは真実への透明な考察。または漂白されたような、無垢な赤子の脂肪のような、美しい卵の殻。
(第一段階の帰結)



二つ目、創作者が作品を完成させようとする行為。「真理」に近い意味合いかもしれない。時にそれは当事者しか持ち得ない経験や感情を起爆剤に、終焉まで突き進む。終焉があるならばの話だが。端から見れば理解しがたい「真実」は妄執と一致する。
(第二段階の帰結へ続く)


冬が訪れる。
果実につけられたしるしは初期位置から大きく下がっている。友人と語らい、来訪者を相手にし、マルメロを描き続けた時間が明示される。
夏の光を煮詰めたようなマルメロの輝きは失せて、もう描けないと判断したロペスは自ら実をちぎりキャンバスを片付ける。
果実は収穫され、工事業者の男たちに軽口を叩きながら食べられる。その光景はロペスの透明な執念が詰まったマルメロの実に、はじめから秘密なんてなかったように淡々と行われる。
マルメロの実がもうロペスのものではないと誰もが知っている。ロペス本人も自覚している。しかし、結局描かれなかった果実は本当に"ロペスのもの"だったのだろうか?ロペスは最初からそれが自分の実でないと知っていたのではないか?

終盤、マルメロの木と果実を如何にして撮影していたかの映像が挿入される。夜の庭で臍落ちした実に照明が当たり、カメラが回る。「これは映画だ」という静かな宣誓に思えて、映画を解体するはずの手つきこそが美とカタルシスを静かに讃える。映画として撮られた以上、残酷なほど映画にしかなり得ないのだ。

ロペスは眠りのなかで夢を見る。自身が描きたかったマルメロの木は幼少期の光景だと判明する。幼少期の思い出を代表するマルメロこそ"ロペスのもの"だった。庭に植えられた木はロペスのものではなかった。

夢は現実と共存しない。現実において夢は不在する。だからこそ人は夢を現実で追いかけることが可能となり、その過程を撮影した本作はロペスの夢見る時間そのものなのだ。
(第二段階の帰結)

ここはトメリョソ
私は生家の前にいる
広場の向こうに 見たことのない木立がある
遠く向こうに
マルメロの濃い葉むらと
黄金色の実が見える
木々の間に両親と私─他の人も一緒にいるが
誰かはわからない
語らいの声─談笑が 聞こえてくる
私たちの足は
ぬかるみに埋まっている
果実は枝についたまま
刻々 しわがより
軟らかくなっている
やがて表皮にしみが広がり
動かぬ空気に
発酵した香りが漂う
私に見えているものを
他の人も見てるのだろうか
マルメロの実が
光のもとで熟れて腐っていく
その光は─鮮烈なのに陰を帯び
すべてを
鉱物と灰に変える光
それは夜の光でもなく
黄昏の光でもない
夜明けの光でもない
──Antonio López García

これは夢ではない。
私たちは夢を見る時間のなかにいる。