駄文学日記

サーカス

狭窄する認識の増幅と解体/町屋良平「ほんのこども」を読んで

書くという行為が何かに従属する、ということ。
なぜ従属か。何をするかわからない、思い通りにならない体に従っているから。


Pascal Quignard,La Haine de la musique,1996(パスカルキニャール 博多かおる訳(2019)音楽の憎しみ 水声社 第一版 93ページ)



本作について何を書けば良いかわからない。書けば「良いか」? 後ろめたいことでも? この罪悪は恐らく、何を書いてもその答えが「ほんのこども」に書かれているという錯覚に由来する。あらゆる読解可能性に先手が打たれている。違うと信じたいが自分がそう感じるから仕方ない。本作は「書くこと」について暴力的な解体と構築を繰り返す。「書くこと」に言及するなら当然「読むこと」も捨て置けず、つづめていえば認識(捉えること)に収束する。

認識。文体。小説。現実。後は時間? 私は物語/意味解釈が不得手で印象論しか行使できない。何かを読んで感動して、新しい感情の生誕を目にしたと思っても、それは再生でしかなく、自分が所持する認識の延長にある虚構の一部に触れただけで、言い換えるなら、頭の外から出られない。自分と作者が秘密を共有できた様な感覚は傲慢に過ぎないと理解してる。


どこか幼さを引き受ける文体。ひらがなの多用と、てにをはが崩れた文章に最初は困惑を覚える。それは類型に覚えが薄いだけの話でしかない。修辞機能の解体を小説が自己の認識が欲したならそうあるべきで、文体の効果を考える方が建設的だろう。何よりこの文体は気持ちが良い! 少しだけ根拠もクソも無い印象を展開したい。個人的に、文体で桜井晴也や宮沢賢治の特定の詩*1を想起する瞬間があった。桜井晴也への連想は私のなかで未だ解決できていないので説明を省く*2。(強いて言うなら、事象という地平を裸足で歩き続ける感覚、それが認識とどこまでもひとつなぎである感覚だ)
宮沢賢治については氏の小説より詩だった。というのも文末表現等の日本語の扱いは似てないが、漢字とひらがなの配置や選択で生じる快楽、ひらがなで緩やかになった脳みそに漢字を切り込む目眩、厳密な単位で文体を分けているとさえ思うその効果が私に宮沢賢治を想起させる。「美」の意味を、個人の認識を突き詰めた果てと解釈するなら(美は数学的、原始宗教的な性質でなければ変容するだろう)本作の文体は間違いなく美しい。
ただこれは文の快楽を存分に味わう読みをした際の話であって、物語に組み込まれた文として捉えると別の印象が浮かぶ。
剥奪された意味接合機能が自ら修復を試みる光景を目にしたような、つまり、身体が出来上がっていないにもかかわらず生きているものを目にしてしまった感覚がある。小説の言葉しか知らない子ども?
「自ら修復を試みる」という比喩はあながち間違いではないと思う。小説を書いていない時間に、書いていた時間の文章を理解し、書き直す。それが変化し続ける認識についての小説なら、連続性が失われるものをどうにか継ぎ接ぎする営みなのだから。


私小説という形式が何を内包し語りうるか私はよくわからない。「私」という人称を用いて「私」の認識や知覚を書けば成立するかもわからない。本書は小説という形式が成立するまでの認識にあらゆるものを回収する。自身と、そして他者の過去を。空想の結末を。
過去の「私」を「かれ」と呼び、登場人物のあべくんを「かれ」と呼び、終盤ではあべくんが「私」を使う。自ら刻んだ墓碑銘がすてきな乱れを起こしている*3

最初は小説として過去の自分を他者化し書き直す行為に残酷さを感じた。いまは違う。世界にこびりついた事実だけが因となる記憶は現実よりフィクションとして認知することが自然で、過去を現在の認識で書き直すなら完全にフィクションが成立する。放置すれば薄れゆく記憶を現在が引き継ぎ執拗に書く、時間を遅延させる技法。認識と時間の捌き方の相性が良すぎる。小説内部の時空間はそれぞれが引力を持ち気づけば溢れている。私小説の形式を援用したことで「私」が小説を内包する可能性をこれ以上無いほどに示し、その上で小説が「私」を内包してしまう。
「私」と小説の交換が(交歓が)絶えず行われ、やがて「小説」が人称になり言葉を発する。
思うに「小説」の存在は(自分のもうひとつの身体は)小説という領域を構築する言語以前の意味の世界*4に漂う人称形式だろう。またはそこで浮かぶ人称の象形ではないか。
「小説」はこの形式で書かれなければけして登場せず成立もしなかったと思う。認識が構築に先走る、認識を言葉に変換する過程がとてつもない速さで行われている。その過程が一瞬ならば自己が他者を引き受けることも自然だ。
認識の対象はたとえば風景、記憶、過去、自分、他者、フィクション、言葉。こうして例を挙げるとすべてが別の何かに解体や変換の可能性を持っていると感じる。または同調の可能性。それらの行為は順序の問題でしかない。
順序?
フィクションが先なのに?*5

夜が小説だった。
P146


順序への言及が消失したところで、他者を認識する方法について二つ記す。
まずは暴力。あべくんの暴力は人体への恋から行われる。強調される暴力は「私」のものとして思い出すことが難しく*6それはあべくんがあべくんであり続ける要因だと思う。暴力はあべくんが他者を認識する方法としての側面もあるだろう*7。あべくんが視認する病室のイメージは自らの暴力を想像の糧にしてありのままから乖離する。ここに「私」の介入があるのではないか。後にあべくんは光景から自身の暴力を再現する。風景は共有できるフィクションの層に位置し、故に「私」は風景から暴力を想像する。ゾンダーコマンドを想像する*8*9


次いで声。本書の「声」は喉から発する外部への音というより、内側にこもり続けている印象がある。本書の文体を思考する際、書き言葉と話し言葉の速度について少し頭を悩ませた。結論として認識を言葉に変換する過程で問いは意味を失う。声は「私」の声なのだから。
故に、と接続するならば、登場人物の声が内省的なそれに近しい役割を果たすことも納得がいく。あべくんはフランスに「植物園」を朗読させ、加賀は自助グループに参加し「私は、」で始まる体験の告白をする。あべくんは暴力依存者だと独白する*10
あべくんはひとごろしのこという外部認識に自らを同調させるが、この告白を始めとしたいくつかは明確に自分に言い聞かせているだろう。登場人物の「声」は自身をフィクション化していく*11


声によって意味が重ねられ、フィクションとなった人物の認識を「私」は引き継ぐ。無理やり裁断した時空間を、さながら本の頁のように認識で整頓し直す強引さ。「小説」は増幅し、本書は私小説の象形となる。読み手の私にとってこれらすべてが表現となり、文章は独特のリズムを獲得する。私はタラビュストを想起する。タラビュストはフランス語の古い動詞で「強迫的な連続音」を表す*12
まるで重力をもつおびただしいあぶくの群れだと思う。


言葉が内包する意味はそもそも多重性を帯びており、その事実が集積し肥大した世界はフィクションでしかない。だとしたら、フィクション化したこの世界からその分のフィクションを引いていく*13行為、つまり眼前の世界の解釈可能性を「私」にとってゼロであるようにする営みの先が虐殺であることも理解できる。

相手のなかに私がいると、相手の身体のなかで喋る私なのだと、もちろん喋るのは私ひとりなのだが、「痛い」「お腹が減った」「死にたい」と言ったとき、相手のなかにも私がいて「痛い」「お腹がへった」「死にたい」と反響し、しかし相手の身体は痛くなく空腹でなく生きたい、その両者の身体のあいだで多少なりともズレがあるからこそ言葉は通じるし、「私」もありうる。しかし強制収容所では「かわいそう」に連なる「じゃない」も「かわいそう」もなく、意味がズレず重ならない言葉が身のうちにこもる
P226

ガス殺されることをさとり声をあげる者が押し寄せて、その十数分のあいだに重ねられるかもしれない言葉が意味を帯びるのを想像すると私は身体が冷え切った。
P241


本書における言葉の奔流は視野がどこまでも狭まる印象を受けるが、終盤に向かうに連れてそれは認識が増幅したのではなく、元からあった認識を繋げただけで、最初から解体の方向へ向かっていたのではと思わされる。本書のどこかに「愛着が剥がれる」という表現があったが、「剥がれる」という表現は全体を通して似合う。「私」は掻きむしることで皮膚を剥ぎ、やがて認識をひたすら剥ぎ、終盤ではこの小説でしか存在の耐えられない「私」が、むきだしの身体と呼びたくなる人称が現れる。

物語が身体を奪うからかれはなんとか小説家になれた。人体にまとわりつく、幾重にも絡まった歴史と個性、法と人格、そうしたものらと退治する根本的な楽観性を担保できた。
P71

「物語が身体を奪う」はフィクションが事象に先立つことだと私は解釈している。歴史はもはや大多数の他者≒総体として成り立つもので、その認識を「私」が引き受ける過程はいくつかの段階がある。

1:ジャン・アメリーとの親和性。アメリーの用いた人称である「私」との同調によるもの。アメリーを読むのはあべくんだが、アメリー→あべくん→「私」といった認識の引き継ぎが行われる。アメリーの前にはもちろん歴史がある。ここで引き受けるものはアメリーの人称であり、歴史への到達は少し後になる。

2:あべくん→「私」の過程で「私」があべくんを認識する際、歴史に触れてしまうこと。これは1で述べたあべくん→「私」の工程の遅延と同義である可能性が高く省略する。

3:「私」と歴史の接続。上記の二工程を経てここに辿り着く。この段階において「私」はあべくんを介さず歴史を認識する。あべくんの読んだ資料を読む「私」だがあべくんではなく「私」の認識で行われる。「私」はフィクション化された歴史をフィクションにすることでフィクションマイナスを手に入れる*14。そして資料の引用で虐殺の歴史は私達にも起こりうる、と示される。この引用は歴史を繰り返す凄惨性などではなく認識を引き受ける行為への補強の機能を担うことは一目瞭然だろう。


私は「私」の認識が飛躍していると思わない。むしろあべくんや虐殺の歴史を関連付けてひとつの部屋に住まわせているだけだ。多重の認識レイヤーを解体して単一化する工程ではないか。複合的につくられた塊よりも、シンプルなものであると感じる。序盤に強く感じた認識の増幅も、例えば脱ぎ捨てられ積み重なった服のようなもので、最初から解体をしていたのだろう。そういった必然性をフィクションに感じてしまうことが本書における私のフィクションマイナスかもしれない。語り手の人称を変えて、それでも多分駄目で、溢れて、壊れて、何かを引き継いで、奪われて、剥いで、つくって、すべてを包括する「私」になること。最後の「私」については言及しない。そこには新しい身体がある。
気づけば不気味に感じたリズムは逃れられない中毒性へ転じやがて胎動に似る。
本書は透明な奇形児が物語という肉体を得て立ち上がる瞬間に思える。

*1:春と修羅」に収録されている「小岩井農場」の終盤。または「青森挽歌」の一部など。

*2:気になる方はこれを読むと良い。愛について僕たちが知らないすべてのこと|首吊り芸人は首を吊らない。

*3:ドナルド・デイヴィドソン『真理・言語・歴史』

*4:この空間は中原中也のいう名辞以前の世界、または田村隆一のいう言葉のない世界に似ていると思う。ただ二者と比較して町屋良平の「小説」はより身体の内側にあると感じる。

*5:フィクションが先んじることについて、オスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という言葉を連想した。この言葉を連想した過程は単にレトリックの類似だけではない。

*6:本文P150

*7:加賀の暴力は私にとってちゃんと他者だった。本文P296

*8:土に手をついたときに思いきりにおいを吸いこむと(……)本文P251

*9:このゾンダーコマンドはスケッチを得意としている。スケッチを発見したSSはノスタルジーに関して好意的なことを言う。SSのなかにフィクションが生まれたのだ。

*10:「私は暴力依存者でした」「私は暴力が好きですが、暴力も私を好きです」「私はそうした暴力とセットの私です」本文P201

*11:さらに人物は外部をフィクション化する。本書に登場する「キュン」「トゥンク」「ポワッ」などの擬音は明確に場をフィクションにする。ただ、私はこういった効果の多用はフィクション化以上に何らかの技巧的側面があると思うが、そこまで読解は出来ていない

*12:虐殺と音楽には関係がある。裸の身体が死の部屋に入るとき音楽があった。収容所の入り口ではロザムンテ序曲が流れた。フォックス・トロットが流れた。リズムを獲得した文体が虐殺について書くことに、奇妙な高揚を覚えた。

*13:本文P267

*14:私によってフィクション化されたもののフィクションコードを引けば、読者だけの体験が待っている。君のためへだけのフィクションマイナスがどの小説からも見つかる。人は誰しも犯罪者として生まれ無垢を演じる刑罰により日々を生きるのだ。本文P268