駄文学日記

サーカス

イメージの本/ジャン=リュック・ゴダール(2019)

「イメージの本」は大半が既存の映像や言葉で構成されている。故に映画は言葉でも音でも映像でもないことが示されてしまった。じゃあ映画とは何か。本作にその問の答えを求めればアーカイヴになるが、過去の集積から逆説的に提示可能な未来が映画だと思う。未来は未知と換言しても良く、コラージュの精度の高さ(私が何を以って高いと判断しているか私にもよくわからないが、高い確信がある)から成る快感は自分がインスタレーションに取り込まれたようなきらいもある。視覚で捉えて脳で処理するよりも何ステップか早い刺激であり、その感覚は体験という語が近い。色調を弄り、切って張ったと、あなたが言いたいならそう言えば良いが、きっとそうはさせない凄みがある。

未知を提示するためにすべての言葉が必要だった。すべての言葉からあらゆる暴力に対峙する気高さを備えたものだけが選び抜かれた。それは私たちの目の前で、残酷めいた感傷と溶け合いながら恐ろしくはやい速度で過ぎ去っていく。なかには暴力そのものもある。だから戸惑うこともあり、夢の中で見た昔の出来事を思い出して泣く少年のように、冬に外に出されて家に入れてもらうまでじっと玄関を眺めている犬のように、感覚の変化した身体は世界を新しく認識するがまだ順応していない。しかし最も気がかりなことはそうした未知にもいずれ順応し、その果てに身体はかつての様に喜ぶことも怖がることもできなくなることだが、ゴダールはその段階で顧みられる過ぎ去ったもの=アーカイヴで未知を提示したのだから、世界に覚える既知性は身体が次の感覚へ変容する準備が完了した合図であり、世界に立ち向かう意思があるならば決して予断は許されないと、私は思うことにする。さながら世界で最後の一人になった人間が偶然にもシェヘラザードであり、言葉をすべて吐き出し終えたときに世界も終わるという確信を抱いた彼女が、きっと手を変え品を変えして新しい言葉を生み出すような、寂寥感と恍惚で発狂しそうな気分で。